【感想】さやわか『名探偵コナンと平成』
バァァァァァルストォォォン先攻法ォォ!!!!!!!
とまぁ、冒頭にミステリー用語を叫んだことでお分かりのことと思いますが、ぼくはミステリー・推理もの好きです。いわゆる新本格と~メフィスト賞にハマっていたタイプのキモオタです。
ですので、ミステリーのネタバレがどれだけご法度かはよく存じているわけです。
なので、この記事はネタバレなし。この先を読んでも本の結末はわかりません。っていうか、そもそも内容のある記事を書く能力が僕にはありません。
『名探偵コナンと平成』読み終わった。なんか、後半(あとがき含む)すごく解放感を感じたし、推理ものを読んだ時の感覚に近い。 pic.twitter.com/wkE9ZhThq1
— 荒井祐太 (@yutaarai) April 20, 2019
ただ、読み終えた瞬間に感動を覚えた、そのことを刻印しておきたい。そう思ってこのエントリを書いております。
ハンバーグなの!? 東海道線沿線で食えるハンブルグなの!?【著者紹介】
著者のさやわかさん。紛らわしいですが、「さわやか」ではなく「さやわか」です。
彼の存在を知って以降は「爽やか」という言葉を確信を持って使えなくなりました。同様の人はそこそこいると思います。
ポップカルチャーを中心としたライターであり、たとえば『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』のパンフレットの文章なんかは彼が書いています。気がつかないうちに彼の文章を目にしている人は多いのではないでしょうか。
最近(ってほど最近からでもありませんが)は漫画原作者としての顔も。
であると同時に批評家として、ある種の真実を探り出す仕事をしています。
扱う対象は幅広く、物語を読み取れるコンテンツならなんでもござれ。
書き仕事のみならずしゃべりの仕事も多く、ゲンロンカフェでは長くレギュラーをつとめていて、こちらも神回多目です。
以下はコピペで作った著作一覧です。
単著
- 『僕たちのゲーム史』(星海社、2012年)
- 『AKB商法とは何だったのか』(大洋図書、2013年)
- 『一〇年代文化論』(星海社、2014年)
- 『僕たちとアイドルの時代』(星海社、2015年)※『AKB商法とは何だったのか』の改訂・追加版
- 『キャラの思考法 現代文化論のアップグレード』(青土社、2016年)
- 『文学の読み方』(星海社、2016年)
- 『文学としてのドラゴンクエスト 日本とドラクエの30年史』(コアマガジン、2016年)
共著
- 西島大介『西島大介のひらめき☆マンガ学校 マンガを描くのではない。そこにある何かを、そっとマンガと呼んであげればいい。』(講談社、2010年)
- 西島大介『西島大介のひらめき☆マンガ学校 マンガ家にはなれない。かけがえのない誰かだけが、君をマンガ家にする。』(講談社、2012年)
- ばるぼら『僕たちのインターネット史』(亜紀書房、2017年)
- ふみふみこ『qtμt キューティーミューティー』(LINE、2017年)
- 西島大介『マンガ家になる! ゲンロン ひらめき☆マンガ教室 第1期講義録』(ゲンロン、2018年)
書籍ではありませんが、90年代からネット上で活動されている方でもあるので、より深く知りたい方は検索力を発揮して、アーカイブの海にダイブするのもまた良いでしょう(ぼくは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」を評論する同人誌『RE:EV』の告知がゼロアカ道場時代の坂上秋成のブログにアップされ、さやわか氏の存在を知ったので、99年からネット環境を持っていたにもかかわらず当時の活動をリアルタイムでは知りませんでした。
『名探偵コナンと平成』ってどんな本?【概略】
1994年にスタートした青山剛昌の大ヒット漫画である『名探偵コナン』を読むことで、「平成」とはいかなる時代だったのかを解き明かした批評の本です。
「批評」という言葉はなかなかやっかいで、言葉としては知っていても、なかなか確固たるイメージをもっていない人が多いのではないでしょうか。
「批評家」と呼ばれている人たちでも、各々の批評観の違いによって、使い方が違ってしまっていることもしばしばです。
という前提の上で言うと、「実在の作品や人物(作家)を使ってストーリーを作り、作品や、作品が産み落とされた世の中に隠され大切なものを探し当てる知的な読み物」といったところでしょうか。
ですので、いわゆる制作者インタビューや設定の解説なんかが読めるわけではありません(引用はされていますが)。
けれど、だからこそ、ぼくたちがここ30年ほど生きてきた「平成」なる年間について考えることができている。
「実在の作品や人物(作家)を使ってストーリーを作り」なんて説明をされると、「いや、作り物じゃん」って思うかもしれません。そんなもので現実の時代である「平成」についてわかるわけないだろう、と。
たとえば、作り物である小説や漫画、映画や音楽を聴いて、恋や愛や人生について大切なものを受け取ったと感じた経験は皆さんあると思います。「テーマ」とか呼ばれるアレです。
批評というのは、それと似たもの。ただし、恋や愛や人生でなく(それらを扱うこともあるけど)、もうちょっと知的で難しいものがテーマになったものです。
本書はそれの平成狙い撃ち版。
つまり、今(平成)を生きている人たちにとって、もっとも関心があってもおかしくない問い、
「ぼく(わたし)が世の中を見て感じてることって、言葉でいうとなんなの?」
に、筆者なりの答えを出してくれた本です。
それも、ドラえもんやクレヨンしんちゃん、ピカチュウやちびまる子ちゃんサザエさんあたりと同等に、だれもが目にし耳にしたことある『名探偵コナン』という作品を通して。
きっと作品のファンが読んでも、新鮮な楽しみが得られると思います。
答えを出した本【感想】
【概略】や【著者紹介】から(というか、そもそもこの本のタイトルから)、
推理漫画でも推理小説でもないんだから、ネタバレしてもよくね?
と、お思いのそこのアンタ。
シルクハットを脱いだらその下にひとまわり小さいシルクハットがあらわれるマトリョーシカ式シルクハットの被り手であるそこのアンタだよ。
そうじゃないんですよ、この本は。解決編があるんです。
「平成の、犯人はお前だ!」
と、著者が名探偵のごとく「平成という時代を次第に追い詰め、脅かしてきた存在」である犯人を指摘します。
あまりにも年若い人はともかくとして、10代後半より上の年齢の人たちは「平成という時代」が何かによって「次第に追い詰め」られていっていた実感をもって生きてきた人は多いのではないでしょうか。
すくなくともぼく自身はそうです。ブッチホンの人が「平成」を掲げたとき6歳だったぼくという人間にとっては、平成という時代は記憶している人生のすべてを過ごした時代だからです。
なので「平成の、犯人はお前だ!」以降の文を1文1文読み進めるときは、期待がとんどん大きくなっていきましたね。
そして頂点に達したところで正体をあらわす犯人。
これがドキッとするような、それでいて納得できる結論になってるんですよね。
ネタバレはしないので、ぜひ『名探偵コナンと平成』を買って確認してみてください。
ところで、ネタバレはしないのでボヤーンとしたまま言いますが、この指摘された犯人の正体。
日本社会や組織においては、場合によってははっきり指摘しないほうが利口な生き方といえなくもない、そんな存在なんですよね。
なので、この指摘をした著者の姿勢には感銘を受けました。
であると同時に、「批評家」が「名探偵コナンという本格推理もの」を通じて指摘したことにも感動をおぼえます。
日本の推理小説の世界ではかつて昭和の時代に、名探偵のような胡散臭い素人ではなくちゃんとした警察組織の刑事による捜査で現実的な(密室とか出てこないような)事件を解決すべきだ、という風潮がありました。
推理小説界の用語を使えば「社会派ミステリー」というやつです。
冷遇された素人の名探偵が登場する作品は「本格推理」や「本格ミステリー」なんて呼ばれています。
本格ミステリーは、たとえば「クローズドサークルもの」と呼ばれる「嵐によって連絡が不能になった孤島の館」「豪雪で外界から隔絶された山荘」なんかを舞台とする作品があることからもわかるように、現実から遊離しているジャンルとされています。
つまり、ちゃんとした組織に所属してるいい大人の「社会派ミステリー」、どちらかといえばアウトローな「本格ミステリー」。
著者はいわゆる批評家なので、会社の一員として生きてはいません。
いささか強引かもしれませんが、批評家=本格ミステリー的名探偵が社会的問題を、アウトロー(といっても仕事で会社と関わって生きてはいるわけですが)がゆえに指摘できた。指摘する勇気が発揮できた。
そんな気がします。
どうです、かっこいいと思いませんか、これ。
また、こういう本を書ける人はそう多くはないという気がします。
もちろん彼以外にも、年齢的に平成という時代をまるまる知っていて、ポップカルチャーを題材に、現実の現象や事物の反映を整理して本を書ける人はいるのかもしれません。
しかし、批評らしい批評、というのはそう多くの人間が書けるわけではないのではないでしょうか。
すごくクリアに新書にふさわしい文体で書いているけど、古典的な批評に近く、経験と実力と知識を感じます。
あと、いわゆる批評の本では先行する思想家や哲学者を引用し、議論を組み立てることがよくあり、本書でも行われています。
スペインの哲学者あであるホセ・オルテガ・イ・ガセットの『大衆の叛逆』という本が引用されるのですが、これがすごく大事なところでピンポイントで用いられるんですよね。
もちろん他にも社会学やなんかの引用は少しあるのですが、「○○という哲学者」「思想家の△△」「精神分析の理論家の××」と大量の引用によってガチャガチャ組み立てるようなことはしていない。
なので、新書としての読みやすさを保ったまま、思想史にもばひゅんっといっきに入り込んで、今の世の中やこの本を位置づけてしまえる。
この抑制は素晴らしいですよ。
いくら言いたいことの前提を固めるためとはいえ、複数のむずかしそうな哲学書から引用してしまうと、扱っている作品につられて手にとった普段批評を読まないような人たちが
「それほんとに扱ってる作品と関係あるの?」「君の頭の中だけの話じゃない?」
って思ってしまいかねない。
引用のピンポイントさだけでなく、「真実はいつもひとつ!」という作品の定番フレーズの利用の仕方と解釈、批評のストーリーのなかに配し方の見事さも大事です。
この言葉を上手く使うことで、犯人指摘以降のぼくたちの向かうべき未来のあり方を『コナン』のなかから抽出し、それによってあくまでも『コナン』という作品について語った本だ、という点がブレないんですよね。
ぼくなんかは、このバランス感覚に感動を覚えました。
ほかに、少し思ったこと。
株式会社ゲンロンという会社が批評再生塾という批評家養成講座を開講していたのですが、著者はそこの講師を務めていました。
そして第4期で著者は
「平成年間(1989~2020)のポップカルチャーで、この時代の、あるいは人々や社会の、あり方がもっともよく描かれている作品や事象を一つ選び、論じてください。」
という課題を出しているんですよね(同期には他にも東浩紀と安藤礼二によって平成を問う課題が出ている)。
その課題を講師自らが1冊の本として上梓し、やってみせている。
これはけっこうすごいことなんじゃないでしょうか。
ほかに、少し思ったことその二。
2014年のゲンロンカフェで、新本格ミステリーの作家である法月綸太郎と東浩紀による対談イベント「ふたたび謎解きの世界――名探偵と愛のゆくえ」が開催されました。
そのイベント中に
「本格ミステリーの探偵は「ループもの」の世界を生きている。そのループの脱出は恋愛関係の成就によりひとりの女性と結ばれることだ。エラリイ・クイーンとかもそうなってる」
というお話があったんですね。
このお話に従って考えれば、本書は平成年間に流行した「ループもの」論としても読めるのではないか、と思いました。
ただ、せっかく『コナン』をつうじて「平成の社会」という大きな問題を考えているのに、「ループもの」論として読むのは小さく読むことになるのではないか、という気もしますが……。
最後に。
このブログ記事投稿時点からみて、あと数日で平成がおわり、令和がはじまります。
タイトルに「平成」が含まれているため、場合によっては「まぁ、いいや、もう令和になっちゃったし」という人もいるでしょう。
あるいは「ウチの子もコナンみてるけど、まだ愛人の産道を通過して6年くらいだし、こんな本わからないでしょ」という血縁上のパパもいるでしょう。
でもこの本をラストまで読めば、平成の次の時代へと開かれてることがわかります。
なので令和になっても読むべき、思春期を迎えた子供と愛人が会わせてくれるかぎりは本を渡してあげても絶対に損はない。
かつてウガニクのオナニー日記を信じて『夢のクレヨン王国』のアニメにハマったぼくのように、このブログを信じて、『名探偵コナンと平成』を手にとってみてください。